宮澤敏文

やはり食は生きる原点

「大震災で、現地の町村では「役場の職員の現場作業服もない、是非とも届けてほしい」と現地へ、いち早く駆けつけられた全国町村藤原会長の依頼を受け、長野県職員や白馬村、森林組合、建設業など集めるだけ集めた作業服と避難者が元気になっていただこうと全農長野から寄贈された豚肉50キロ、白馬村からおやき1200個、白馬商工会から蕎麦せんべいなどもって、県議会選挙中の4月7.8日と現地に入った。その日の深夜、福島原子力発電所のある双葉町の皆さんの避難するホテルで、ともに震度6強の地震を体験した。

翌朝5時にホテルを出て、伺った宮城県庁のロビーでは、昨夜避難された十数人の県民が毛布を頭までかぶり睡眠をとっておられた。県、県警、自衛隊などごった返す宮城県災害本部で蕎麦せんべいを渡し、ひびが入りエレベーターが動かない宮城県町村会で、作業服を8階まで、汗いっぱいでで運ぶ。その後津波の被害で、何にもない海岸端を回り、福島県庁へ向かうが大変な光景だ。

福島県庁周辺は、原発の事故がいまだおさまらず、対応していただいた県職員町村会職員が、会話の途中で何度も涙を見せられた。いまだおさまらない目に見えない災害への不安、将来の見通しがつかないことへの焦り。同じ行政を担うものとして指揮命令系統が機能していない現状が辛く、心が締め付けられる。車の中での会話はほとんどなく、安曇総合病院の医療応援隊が震災直後に支援された福島県三春町の避難体育館へ向かった。

富岡、浪江、双葉町など住民の皆さんが避難されておられたが、4月のはじめの福島は、まだ寒い。暖房もなく、電気もない体育館で、じっと我慢した避難所生活を送られている。もし隣近所のお付き合いがない互助の関係ができていない地域であったら、こんなに長くプライベートのない空間で、一緒の生活はできないであろう。

「3.11以来この避難所では毎日甘いパンと冷えたおにぎり、やっと数日前から暖かいみそ汁が飲めるようになった。みそ汁を飲むと自分が返ってきたようだ、身体も心が温まる」と笑顔をみせられる。今朝、福島のホテルから二手に分かれて、ここに来て、料理した白馬村のボランティアの皆さんの焼き肉とおやきの話になると一層笑顔が深くなり、「私は3.11以来、初めてお肉を食べさせていただいた。おいしかった。信州の野菜饅頭もあたたかくておいしかったよ。ありがとうございます」と深く頭を下げておいてであった。

食べることは、何より大切であるとずっと思ってきたが、改めて食べるということの大切さを痛感する思いであった。

災害の非常食が我が家にも大切に非常時持ち出しリックの中に納まっている。災害時の食事も含め、今回の大地震で、災害に対する備え、避難時の在り方というものを抜本的に考え直さなければならないのではないだろうか。 しっかり分析し、それをそれぞれの地域特性を加味し、独自の備えを生み出さなければならない。自然の力は人類の予想を遥かに超えるものであること忘れてはならない。

しかし私たち人類は、他の生き物のように、食べることの大切さをもっともっと認識し合わなければならないし、ともに力を合わせ、食を生産することから始まった日本の農耕民族の輪や絆こそが社会創りの真ん中に据えられるべきであることを自覚すべきであろう。

避難所で会話が弾むときは食べている時。ブランドの牛肉などでなく、祖先から受け継いだ地産地消の旬ものを持ち寄っては、よもやま話に花を咲かせ、お手前の味わう時である。

   「顔をくずし 笑う絆に 湯気のぼる」   星辰

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