宮澤敏文

二重の虹

 田んぼの収穫がひと区切りすると、男たちはきのこ狩に、子供や女性は里山に栗拾いに出かけるのがふるさとでは慣わしになっていた。男たちは、それぞれが子にすら教えないきのこの「しろ」があり、雨の日などは先を争って奥山に入り、びくの中に立派な松だけを忍ばせて帰るのが、自慢であった。こどもたちとて、栗をいっぱい拾って帰ると母親やお年寄りたちに、ほめられることがうれしくて、何か頼りにされているような爽快さに山へ入ったものであった。

 人が山に入ることにより、里山と奥山の住み分けができて、熊や猿たちとの境界が出来上がっていた。ところが今、山に入る人もこどもたちもほとんどなくなった。焚き木取りは石油ストーブでなくなり、栗などはスーパーで安く手に入る。山と人との生活の糧とした関係は遠のいてしまったのである。

 とりわけ今年は山にどんぐりがほとんどなく、熊が里山に下ってきた悲しい事故が毎日のように報道されている。昨年は秋が長く、熊の繁殖が盛んに行われ、出産ブームであったことも影響しているようである。自然の力は限りなく、わたしたち人間の予想など乏しいものであるが、改めて住み分けの大切さ、里山の整備が必要性を思う。

 わたしはよく子供たちをきのこ取りや栗拾いに連れ出した。採取する喜びや家族がそれを一緒に食べるうれしさを感じてほしいと思ったからである。しかし4人いる子供たちが、採取してきた山の幸をご馳走になったことは一度もない。将来はあるだろうと思っているが、この子達に親やいまの家族を養っていこうという意識は多分ないのであろうか。一抹の寂しさと「不足を持って育ててきた」つもりなのだがと振りかえる。

 今朝雨上がりで気分がよかったので久しぶりに山へきのこ狩りに入いった。舞茸を少しばかり山は恵んでくれたが、山グリは拾い手がなく、どの木のしたもいっぱい落ちていた。意気揚々と里に出てくると珍しく二重の虹が、安曇野の代表的山である有明山の里にかかっていた。

 もう35年も前、不安だらけで上京した日も二重の虹がかかっていた。旅たつ朝、亡き母と亡き祖母が、目にいっぱいの涙で見送ってくれた。わたしはこの涙で今日まで、生きさせていただいた気がする。

 いま東京で下宿生活をする長男や浪人生活の次男、このごろたくましくなってきた三男四男の顔が浮かんできて、心に熱いものが広がった。

  「虹の思い 親の涙の うえに咲け」  星辰

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