宮澤敏文

北アルプス山麓のすぐれもの

稲穂を渡る北アルプスの峰々から吹き降ろす秋風をいっぱいに受けて案内人の女優田中律子さんが自転車のペタルを踏む。

中秋の名月がかけ出した9月17日、日本の屋根であり、日本を代表するふるさとの原風景が色濃く残る北アルプス山麓の匠技を集めたブランドの里安曇野松川村、池田町、そして北アルプス山麓の大町市、白馬村、小谷村を紹介するテレビ放映が全国の茶の間に発信された。

「テレビを観て、ブランド品を通じて北アルプス山麓に住む人たちの笑顔やこだわり、自然との共生が理解できて、とてもさわやかになりました」「一度伺って食べてみたい。」など様々なご意見をいただいた。

北アルプス山麓ブランドの取り組みは7年前にさかのぼる。

自然が厳しい地だけに、人が汗し工夫しないと生きていけない。耕地が少ない分いいものはあるが量がそろわない。住む人が丸く欲がない。自分が毎日汗するものが眠れる資源だと気づくのに時間がかかる。行政が異なるため、一体感がない。生活の糧となる事業が異なるため、求めるものに差異がある。

1市1町3村の北アルプス山麓地域大北地区を63000人の住民が誇りと自信と一体感を持って世界に誇れる地域としよう。そのためには前を向いて、この地の「すぐれもの」をみんなで、育み、より磨きをかけよう。まずは自然といちばん近い農業分野から始めようと提案させていただいた。

「北アルプス山麓の清廉な空気と清冽な水、そしてそこに住む人たちのまじめで一途な汗」とテーマを決め、全国にブランドマークを募集し,協同乳業さんが保持する「北アルプス山麓」の商標も東京へ何度も足を運び無償で譲渡いただいた。

あの時ほどうれしかったことはない。「これでスタートが切れる」と帰りの電車に中で、間に入ってくださった協乳OBの上条博さんに涙の電話をしたことを思い出す。

一番神経を使ったのは「目利き役」の選考であった気がする。

古からの友人である農林水産省渡辺好明元事務次官が委員長を快く引き受けていただいた。その上、味と文化のわかる錬金術者をご推挙いただいた。

ブランドづくりは時間がかかるといわれるが、そこまでに3年の月日が流れた。

始まった認定委員会は、「全国に誇る本物の発見」でコメ、日本酒、ワイン、漬物、伝統食材、など瞬く間に、50種を越えた。

その間、ブランド品を世に出すため、生産者には小浜市の学校給食食材提供農地に児童達がお礼の絵を掲げていることをヒントに、認定品の生産農場としての誇りをもってもらう目的で「ブランド生産農場」の看板を設置した。

また販売店にグレードを持たせ、地域のすぐれものを扱う誇りの表われとして、伝統工芸や板前さんの社会にある「匠ののれん分け」の精神をいたき「北アルプス育ち」と明記した京暖簾を店頭に飾ることを義務付けた。

ブランド品を使った料理や弁当の開発にも力を入れ、2010年は「生産者製造者の汗と笑顔」をテーマに長野県向けにブランドの誕生を知らせるスペシャル番組を創り、今年はこの番組を通して全国へ発信した。

その中で私が一番気を付けたことがある。それは認定事業者や生産者への教育であった。「より良いものを創る精神を持ち続けなければブランドは死んでしまう」 日本一流のプロである認定委員がら講座を定期的に開催した。また年に一度は先進地へ生きた工夫と汗を学ぶ研修も実施してきた。

何もないところから生み出すことの苦しみも喜びも体験させていただいた。

その都度うれしかったことは、誰よりも故郷のそれぞれの市町村広域のために働く市町村長や議員そして職員、認定事業者ら良き仲間、パートナーに恵まれたことだった。

とりわけ記憶に残るのが、スタート当時担当であった三沢鈴子農政課長だった気がする。休みの日は、自費で東京をはじめ県下を共に飛び回った。一年で男女共同参画室長として引っ張られてしまったが、私とペアで仕事をし、特性を生かした内容は将に男女参画事業であった。リックサックを背負っての優しい笑顔が忘れられない。

「全員が主役」を常に話してきた。

人の輪と絆によってここまで創り上げることができた。

第一次コーナーは無事船出した。これからである。お盆明けからすでに2回の北安曇地方事務所レべルで厳しい会議を実施しているが、今後これからが大変である。

しかし人の知恵と工夫の心は将にわくわく滾々である。

    「さわやかに 映る笑顔 高らかに」 星辰

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