宮澤敏文

北海道の夜明け

2016年がスタートした。今年は明治から本格的に多くの人のたゆまぬ強い生きる力で切り開かれた大地、北海道に新幹線が到着する。函館から札幌間はこれからであるが、昨年函館市からニセコ役場により、余市の農業を視察し、小樽市へと車で走った初夏すでにあちらこちらで新幹線の工事が進んでいた。もうわずかな期間で、東京を経由して鹿児島、札幌が新幹線で行き来する時代が来る気がしたものだ。

余市のJR駅前には竹鶴夫妻がウヰスキーづくりに命を燃やした工場の三角屋根が広い青空にそびえている。決して大きな建物ではないが、堂々たるきちんとした空気が流れていた。

戦前、日本がまだ外国との交流がなかった時代、単身遠い国アイルランドにわたり、製造技術を身に着け、そこで人生のパートナーマリー夫人と出会い、とともに多くの荒波にもまれながら大きな実を成らせたお二人の絆に心をはせた。

食も酒も地域を代表する文化である。アイルランドの大自然の中で生まれ、人々の生活の中であるときは体調を整える薬として愛用されたウヰスキーは、日本酒やワインと違って、最低5年は貯蔵し続けて初めて世に出る。桃栗3年夏季8年、ブドウも4年はワインになる苗が育つ時間が必要ではある。しかし製品のまま5年間以上眠らせておくのは、資本家にとっては忍耐のいるところだろう。

農産物の特産品を創るのは、自然環境と適地である程度成し遂げられるが、それを加工し、世に問う品を作りあげることは、鎖国状態が長く、甘くない個性の強い酒を普及するのは並大抵ではない。時流の変化も必要だろうが、日本酒がうまく人々の生活に溶け込んで完成された文化になっている。他国の文化である産品ならばとりわけ大変だったろう。

この不可能を実現したのは、二人の変わることのない信念と互いを思いやる心、不二の思いが、この北の大地に住む人たちにその地を離れずふるさととして住み続ける機会を与えたのだ。

朝霧がわく余市周辺のさくらんぼ畑や果物畑はきれいに手入れされ、開拓に入られた人々のすごさの向こうに、この地を第2のふるさとと決め、一筋の道を歩みぬいた二人のやり取りを思いやる。

「二人して、凍てつく大地に、泣き笑い 育む夢を 朝霧つつむ」   星辰

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