宮澤敏文

福島の苦悩 5年目の夏

6月県議会の初日、地域の期待を一身に背負って札幌冬季オリンピックにスケート短距離選手して活躍された塚田(旧姓小野沢)良子さんと地域発のシンガーソンググループとして活躍された「わさびーズ」の中村さんの訪問を受けた。
「2011年3月11日の東日本大震災から5年たった今も、自宅に帰れない福島県浪江町の皆さんを激励するために、歌を通じてのふれ合いと信州に招待してのひと時を共にすることで、元気を出して諦めずに生活してほしい」と被災住民と長野県の絆づくりに努力されている話、「長野県も災害が多い、被災者に寄り添う心が通った支援をすべきではないか」熱く語るお二人に私も県危機管理部長もうなずきながら聞いた。
3.11大震災後、現地には何度も伺った。復興は、ピッチは遅く、やきもきするが、復興は確実に進んでいる。と認識していた。

大震災直後の4月8~9日、6弱の余震の中、全国町村会長からの依頼を受けて、宮城県と福島県の町村会に300着の作業着と大熊町、富岡町、双葉町の避難している皆さんに、全農長野から寄付を頂いた50kgの白馬SPF豚と焼き肉調理一式を持って白馬村村長、議長、焼き肉ボランティアの皆さんと現地に駆けつけた。
それ以来、避難所で本に飢えていた子供達に「本を読むことが一番大事だ」と毎年避難した学校や施設に2万冊にのぼる童話やコミック本を北アルプス山麓からみんなで送ってきた。
「福島県の今を見たい」

本会議の一般質問が終わった6月最終土曜日、始発で福島県に入った。
早速レンタカーを福島駅で借り、51km先の相馬市に向かった。2時間ほどで木のぬくもりを大切に街づくりに励む相馬市へ着いた。久しぶりの太平洋は青く広い、国道6号線を中心に、海沿いを南下した。
南相馬市では道路のいたるところに「ここまで津波が押し寄せた」という看板がたつ、塩の被害で枯れた杉林が随所所でそのまま残っている。水田の基盤整備が行われているが、稲が植わる状況にない。
横道に入り、海にせり出す丘の上から津波の様子を想像する。松を中心とした防風林が次々に巻き込まれ、水田の上を、家を飲み込み津波がゆっくりと内陸部へと押し寄せていった姿を追う。この日のここの海は少し荒れ気味で、怒っているような海の声を聴く。
建設中の防波堤の脇に、小柱で遮へいを創り、大事に植え育てられている松の苗木を見る。看板には将来の防風林にする松の育成畑と書いてあった。
「早く育てよ」と声かけながら、南下し国道6号線を浪江町、原子力発電所がある双葉町方面へと向かう。
浪江町に入る。5階建てだろうか立派な庁舎が現れた。「交通事故がない日本一の町を創ろう」当時のままのスローガンが飛び込んでくる。交通規制が解かれている地域に入り、5年前の生活の匂いを探す。鮭が昇ってくる川を津波が来た。街のメインストリート地震直後のままであるが、町のあちらこちらに福島県人らしいきちんとした街づくりの様子が感じ取れ、浪江町の豊かさ、人の暮らしのおおらかさが伝わってくる。
たまに帰宅している家と全く放置されたままの家が、地震後のありさまが窺える。
除染作業をされている現場を視察するが、マスクをした完全防備の作業員が、マイクロバスで作業現場に運ばれ、無人となった家の庭やまわりの汚染土を黒いフレコンパックに入れて運び一カ所に貯められている。
除染作業も大変であるが、町はずれの広場に集められた汚染土を処理するのには150年以上かかるという。
浪江町の役場が、現在二本松市に移行していると聞き、車ナビの案内通りに向かうが、途中で、放射能汚染が著しいため、案内のルートが変わる。思いもよらない6号線を南下するルートを案内され、左折原子力発電センターの看板を横目に、双葉町に入る。水素爆発を起こした発電所施設の近くに向かっているが大丈夫なのか不安になるが、案内されたとおりに進む。
通行止めゲートを管理する警備会社員、防犯の警察官しか目に入らない。現在も長野県警を含め、警察官が危険の中、派遣され警備にあたっている。

双葉町。原子力発電所の案内看板が目に入る。今は無人化しているこの町、車を止めたいが後ろから来るトラックにせかされる。文化の香り豊かな街は、草が伸び放題で、国道沿いの家や店舗の門は閉ざされている。
大学の学友がこの町で歯科医院を開業していた。無事だとは聞いているが、その面影を探しキョロキョロしながら運転するが、道路案内板の放射能密度を示す数字は高い。
「放射能汚染の現地」5年間時間が止まっている。
安全基準をはるかに超える地震であったことはつらい現実である。過去に原子力発電所は何カ所も視察研究してきた。日本の安全技術のレベルは世界一であることは理解している。しかしこの現状は現実である。何とも言えない思いでハンドルを握る。

あっという間に富岡町に入る。5年前の4月9日、三春町で富岡から避難された皆さんに焼き肉を差し入れした時、震災後初めて暖かい焼肉を食べたと喜ばれていたおばあさん「早く家に帰って、畑仕事をしないと体がばかになってします」といわれた。あの時、5年も自宅に帰れないとは、私には想像もできなかった。今はどちらに居いでだろうか。
また亡き遠藤良子さんとの発案で、翌年は亘理町へ、翌々年は三春町へ伺い「家や学校も失った子供たちに夢や希望を持ち続けて」と北安曇郡大町市の200人で、避難している富岡町の教育長さんに童話やコミック本を手渡したことを思い出す。皆さんの安否が気になる。
今まで大切に管理されてきた水田や畑は、5年放棄され草ぼうぼうとなり、農家の入り口には一軒一軒に頑丈な金属の通行止めのヘンスが設置され、のどかさの中で浮き上がっている。
「いつになったらこの災害は終わるのだろうか」つらい。

富岡町夜ノ森から右折して大熊、双葉町の山際のくねくね道を抜け、国道288号線で三春町に向かう。
三春町には富岡の保育園が設置されている。この道を避難された人たちは、今もどのような気持ちで行き来しているのだろうか。
峠を越えて、午後4時30分田村市、三春町に入る。道の駅のベンチに腰を下ろし、住民の名前の入った手作りのむしばんとトマトジュースで遅い昼食を取った。
わすか10kmほどである。
この里の人は野良仕事に生だし、農協のスーパーや道の駅もにぎやかである。

古より、この地域の学問の場として栄えた桜の町三春町。役場の横に住民権運動家の板垣退助公の立像があるが、見つめる方向に、この地域の藩校明倫館の門がたっている。
静かにこの地の子供たちの将来が、昔のように夢多き希望で輝くこと、そして一日も早く、故郷の限りなく続く太平洋の海原を共として、家族で笑顔に満ちた生活が戻ることを願い、静かに目礼した。
                   (福島県大地震現地にて)
        長野県議会議員
                 宮澤敏文

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