三畳一間の青春
「狭い部屋だなあ」十数年前に亡くなった祖母が、最後の遠出で、上京し私の下宿に入るなり茶目っ気たっぷりの笑顔で私を見つめた。大学2年の次男が、笹塚の近くの中野に下宿を移したとの連絡を受けて、わたしのあのころを思い出し、静かに目を閉じ、満ち足りた気持ちでほほえんだ。
一大決意をして上京する日の朝、北アルプスに二重の虹がかかり、不安いっぱいで始まった旅立ち。世田谷区の宮ノ越豪徳寺に下宿を決めた。初めての一人暮らし、大学受験をするための費用を嫁せぐ一年の始まりだった。窓の下に世田谷線が走り、大家さんの家から桜の枝が伸びやさしい香りを運んでくる部屋だった。亡き母から米と缶詰。祖母からは産みたての卵、涙で滲んだ手紙が定期的に送られてきた。それを読みながら、何度も涙したものだ。
運よく探し当てた笹塚の新宿中村屋さんの工場で、深夜11時ころに工場に入り仮眠し、早朝3時30分から肉まん、あんまんを製造するラインと夕方まで向かい合った。チャップリンのモダンタイムスそのもので、田舎の農家での若者には苦痛な時間であったが、この工場のおかげで何とか食っていけたのだ。そして3畳一間の下宿に帰って、土鍋で食事を作り、何も無い部屋で参考書と向かい合う時間が、とてもうれしく、3畳の広さと窓からの穏やかな春の景色が、不思議と当時のわたしの安心する空間であった気がする。
翌年バイトで蓄えたお金で予備校に通ったが、中野の哲学堂近くの新井薬師の下宿も3畳一部屋だった。週に3日は徹夜し、骨皮筋衛門になったが、近くの銭湯にいって長い時間風呂に入っている時が、唯一楽しみだった。
明治大学に入学し、また中村屋さんで、早朝の3時30分から8時00までのアルバイトをし、学費と生活費をつくりながらの学生生活であったが、朝が早いため、工場近くの笹塚の3畳の下宿に移った。良き友に恵まれ、いい出会いに感謝する日々だった。
学生運動で大学が閉鎖されると、中村屋さんと都清掃局のごみ集めのバイトで稼いだわずかばかりの旅費を胸に、リックを背負ってヨーロッパヘ飛び出したことが昨日のように思う。数ヶ月の一人旅、多くを学ばせていただいた。13kgもやせたが、あの体験が今のわたしを創っている気がする。
帰国時にたまたま友達になったオーストラリア人が、わたしの3畳の下宿を訪ねてきたとき、目を丸くして狭さに驚いていたのも懐かしい思い出である。
3畳一間は、わたしのスタートであり青春そのものかもしれない。
「桜舞う 3畳の窓に 夢かける」 星辰
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