60歳の節
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思いもよらない2歳違いの妹から「父も母も届かなかった還暦60歳になられたことを祝います」とメールがあった。
昨日まで、ここ数十年顔を見ない妹たちの里帰りをさびしく思っていた心が熱くなった。
8月16日、静かに家の前の川にお供え物を流し、いつもながらお墓の前で、花を飾り線香を手向け目を閉じながら感謝で手を合わせた。
私が生まれた昭和27年も今年同様とても暑い日であったようだ。お盆なのに父は仕事で留守、祖父は安筑野球見物で留守。母は、自宅出産で大騒ぎだったようである。
この頃の日本は、隣国朝鮮動乱の中で、好景気で戦後の復興真っ盛り。
我が家は、戦後の食糧増産体制の中で、安曇野でも水田づくりが盛んに行われ、父は借金をし、まだ珍しいトラックを数台所有し、砂地であった松川村地域に地元の粘土を運び、客土を通じ松川村の美田開墾事業に加わっていたようである。
そんな父も七年後には事業の過労が原因で36歳の若さで他界。肝っ玉母さんであった母の笑顔と涙と継父の支えでここまで生きてこれた。
私のわくわく滾々とした力の原点は、一生懸命に子らの幸せを祈り、働き、家門を守ってきた母にある。
命そして家門の伝承。残念にも子宝に恵まれなかった人たちは養子制度の中で、家門を維持し、継承してきた。今歴史に例を見ない若者が結婚しない時代、同性同士が結婚することを許可する国もある。
私は4人の子供たちに恵まれた。家内と力を合わせ必死だったが、その子たちも皆20歳を超えた。まさにこの節目に三つの恵みに感謝以外何もない。
日本社会は少子高齢時代である。しかし社会の制度は若い人が高齢者を支えるシステムは変わっていない。介護保険では、41歳の人は夫婦で平均で月10000円以上を負担する。長く続く訳がないと思う。
国だけが悪いのではないが、制度つくりは国である。「男を女に変える。女を男に変える」以外何でもできるといい続けられている国会が変わることを願わずにはおられない。
そして今、変わるものを受け入れる心、残さなければならないものを守る勇気、その両方を見つめる心が何よりも大切に思う。
「数々の 笑顔の数だけ 人恋し』 星辰
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