宮澤敏文

函館の人

山国信州育ちの私にとって、港の言い知れぬペーソスと心騒ぐしらべそして海のかなたへの無限なあこがれが日々に疲れてきたり、節を感ずると決まったように足が向く。

海から文化がやってきて、農耕民族の定まった米中心の生活やまつりに変化を創ってきた。

古くは遣隋使遣唐使が日本に仏教を伝え、近代日本は咸臨丸や洋行帰りの先人たちが政治制度を創り、学問の学び舎を開設した。

もちろん外から来た文化を自国内で熟成し、稲作国家日本流に創りかえる日本人のすごさに我が国なれど感激する。

この7月、「道」と小さな町村のかかわり方を学びに、函館市渡島総合振興局と木古内町を訪ねた。

「道州制には期待したのですが、道財政の確保が見えない。国との線引きがしっかりすれば地域を熟知する道がきめ細かくできるのに」定まらない国の方針にやる気ゆえの不満が振興局の道職員からが飛びたす。

「ある道職員が、木古内に出向して来て以来、役場の雰囲気が変わった。志向が前を向くようになった。人口も平成2年の9000名から6000名を割り、0.20の財政力しかないが、市町村合併だけが道ではない気がする」とは総務課長。全国から注目され財政破たん寸前までいった木古内町。町にとって、最も頼りとする「道」に何を望むかとの問いに「人」との回答が返ってきた。

この時期の函館の日の出は4時。

ロシア領事館跡や教会そしてイギリス領事館跡から元町周辺を幕末の3つの開港である函館港を思いながら一時間を歩く。坂の上から望む港は、建物の大小は別として当時と少しも変わっていないだろう。

ここ函館にも、海外に開けた学舎がありすぐれた先人がおられた。そんな人をしたって山国群馬からやってきたのが新島襄氏だ聞いた。氏はペリーも立ち寄ったこの地よりアメリカ大陸へ船出し、新たしい文化を身につけ、京都に同志社大学を開設した。

函館山に雲が巻き、辺りがけぶり、明かりが揺れる港の倉庫を改良したビヤーホールで、のど越しのビールに目を閉じる。

「人である」すべは「人である」

 「続く坂 あすへの思いを 送り出す」  星辰

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