2002年9月1日知事選の後におもうこと
〜これまでのこと・これからのこと〜

「知事不信任案」については、大きな地方行政の転機だったとしみじみ思う。
行政のシステムは簡単なように見えて、内部はなかなか複雑である。正しく一般県民が理解しにくい部分が多すぎるが、今まで、良い悪いは別として、それが、公開されてこなかった。だから、その判断が、どのような経過でなされてきたのか県民にもしらされていなかった。
県議会議員も、調査権はあっても、残念ながら県職員の中にも、「あまり専門的知識のある質問されたら困る」という危惧があったのか県議会議員には知らされないことも多く、従来の議会対策は、会派の長に説明し、了解されるとスムーズに流れる型の県と議会との関係であったと思う。だから官官接待があり、酒宴の延長の席上で、県の方針が合意されていた。

私が当選した年から官官接待がなくなり、県と県議会とが酒宴で県の方針を煮詰めるという、従来の方式に変化が生じた。地元の要望を多くかかえる県議員は、県職員とのパイプづくりのため、自らの費用やエネルギーで努力しなければならない時代にはいった。それまで、県職員が、自らつくった予算や法案をスムーズに決定してもらうために議会対策をした時代はおわり、逆に県議会が弱体化しつつあった。

その時に田中知事が登場し、従来の国・市町村の予算システムや、間接民主主義のルールを破る政策をとろうとした。現行の予算・行政システムと正面から衝突したと思う。その象徴が「脱ダム宣言」であった気がする。

洪水時の高水をどう設定するか、今、国が各県に求めている方針で決定するのか、全く、別の長野県モデルをつくるのか、それがダム論議の焦点であった。
私は砥川部会長として、国が求めている方式で算出した基本高水の出し方と長野県モデルと言われるだろう既応最大をとる二つの案を検討委員会に答申した。
あれだけマスコミの方々に報道していただいたにもかかわらず、検討内容は県民に伝わらなかった。結果、当時、県担当職員も、国の担当職員も、また、部会の委員も不可能と言っていた案を県知事は決定したのである。これには、驚いた。そこで発生する財政的負担増や様々な現実問題での摩擦を知る私には、この判断を止める責任があると思い、不信任案提出に賛成した。
もちろん、知事が自らの主張が正しいと思えば、県議会を解散するだろうから、私の失職は覚悟で、後援会役員や町村長、町村議会とも相談していた。

しかし、知事は自身の失職を選んだ。これは田中知事が県民の判断に身をまかせる方式をとったわけで、これも今までのパターンからいって正直驚かされた。
知事選では、私が唯一主張してきたダム中止にともなう短期的な要因での財政破綻には全くふれず、ダム中止を国や市町村に正式に宣告することなく、失職したため、本日(9月21日)現在、まだ、長野県は浅川・砥川の治水・利水対策として、ダムによる方式でのぞみ、現に来年度、国へ予算確保に動いている。また、このことを知る県民の方は少ないであろう。
現在、県民が行政のことを知る方法は、マスコミしかないのである。
私も告示日前日まで、この経過を県民に一生懸命説明し、説明責任をおこなったが、個人の力の限界を感じている。

今、9月県会にも、この2つの河川の水位調査費が4000万円程提出されているが、これは基本高水が、雨量からの基礎データでは、不十分だからである。この景気の悪い時、思い切って既応最大を基本高水の長野モデルとし、多くの県民が支持した基本高水を下げての治水・利水対策を主張し、国と争うのもこの選挙結果から言うというのではないかとすら思えてならない。

私は、今回表に出て選挙をするのは会派の申し合わせと後援会の決定からしなかった。
このことで、お叱りも多くの方々から受けている。
しかし、私も選ばれて出た者として、少なくても私が主張した財政問題が、論争から離れ、田中知事の個人の資質の問題となった段階で、表に出ることはさしひかえさせていただいた。

県政最大の改革の時である。もう、本音でぶつかりあって、県議会と県職員も県知事も、いたみとメリットをしっかり県民に知らせる県政でなくてはならないと思う。
また、それができない人は、その職にあるべきでないのかもしれない。
今回、多くの人から、ご意見やご忠告を頂いた。どれも創造的なもので嬉しかった。今、その職にいる者の背中が真にためされている時であると痛感する。
以上述べてきたが、不信任案提出の私の真実は、何一つ終わってない。これから、本格的に始まるのだと思っている。
しかし、この度、私の力不足から、多くの方々にご迷惑やご心痛を煩わしたことをお詫びし、御礼申し上げ、一連のご報告といたします。
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