宮沢敏文の里山ばなし(4)
2002年8月 老人施設の盆踊り
 おどりの輪の大きさが、自然と決まる。
 10人の輪は10人の大きさに、30人の輪はおどっている間に自然とその輪が広さができあがっていく。
 農耕民族である。日本人は、五穀とりわけ稲作とともに一年の節目を刻んできた。
 正月から始まり、烏追い、そして三九郎、冬は冬、春は春、夏は夏、秋は秋と、その形式は別として豊穣を祈る祭典が全国で催されている。
 しかし、輪になって流れをつくって踊るおどりは、全世界にもあまりないのではないだろう。
 おどりの中で全員が顔をむきあって気を合わせ、心を合わせる日本の盆踊りに、和を重んじる日本人の心をみる思いがした。
2002年6月13日 横浜の港
 霧のような雨が、外人墓地をおおい、早朝の港のみえる丘公園は、朝のジョギングを楽しむ人がひとり、ふたりいるばかり。静寂を楽しみながら、大佛記念館から元町へぬける。
 日本の夜明けを異なる視線でみつめた異国の人達は、今の日本をどうみつめているのだろうか。
 明治・大正・昭和、そして平成とこれ程、短期間に激しく変化をくりかえした国をどうみつめただろうか。
 新しい発想はともかく、あたえられた条件をとぎすまし、成熟させていく策は、この民族の横にでるものはないのではないだろうか。
 しかし、こりない民族でもある。
 二度の戦争・・・おごりの進行をいつも繰り返す。バブルの崩壊もそうである。
 ずっと日本がもちつづけた「自分のことは自分で責任をもってやる」「他人に迷惑をかけない」という古来の美徳は、欧州のどこの国へお伺いしても同じようにもっておいでになる。
 今思うともっとも地球人としてその先頭を走っていた愛すべき日本人は、遠い過去にいってしまったのだろうか。
 ジョギングから帰って、ホテルで朝食をとる。ひさしぶりにカフェを選んだ。
 焼きたてのパンとチーズで、山下公園と港を眺めながら、ゆったりとひとりの時間を楽しんだ。
 今から30年近く前、この港からロシアナホトカへ出航した日は暑い日だった。
 今日、ワールドカップの試合がある横浜なのに、なぜこんなに静かにゆったりできるのだろうか。
 異人さんの息遣いが、今もこの街に生きているのかもしれない。力のはいった私の肩に、ふっと、やすらぎの調べをふきかけてくれているようだ。
 この雨は数十日ぶりだろうだが、しっとりとした、この街のたたづまいに、ひといき、いや、ふたいきもすることができた思いだ。
 9時から始まる神奈川県庁での財政再建研修は、この県の新しい風に充ちているのだろうか。期待しながら、この街は、私をいつ伺っても心地よくつつんでくれる。

2002年6月 さわやか農水省
 あのさわやかな笑顔がみたくて、農水省のふるびた玄関に立った。
 故中川一郎元大臣が、記されたダイナミックな農林水産省の看板に目をやりながら、事務次官室へお伺いすると、渡辺好明さんは、あいかわらずの笑顔でむかえてくださった。
 BSE問題など、農水省最大の危機だよ、と、さらりと話される。
 現況分析の上に対応はすばやくなくてはならないとは、渡さんの変わらぬ姿勢だが、この人には「ふるさとは美しくなくてはならない、村は美しく、そこに住む人は輝いていなくてはならない」という強い哲学がある。これは、全く私がいいつづけてきた「ふるさとづくり」の基本と同じで、いつも元気づけ合っている気がする。
 思い起こせば平成6年11月30日、参議院のWTO特別委員会に参考人としてお伺いしたおり、「安曇野から夕立は消えた」と申し上げた。水田が減反で1/3なくなり、入道雲がわかなくなった。
 私の主張を聞かれた渡辺さん(当時企画室長)は、さっそく、昨年4月より「水はり減反」を制度化した。その早さには舌を巻いた。
 それ以来、よく信州の大自然の中で議論しあう時間をいただいた。
 その渡辺さんが、水産庁長官から事務次官になり、失われた農水省への信頼回復に命がけで向き合っている。
 とにかくがんばって欲しい。
 そして、渡辺さんのようなさわやかな農水省を復活して欲しく祈るのである。
 

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