宮沢敏文の里山ばなし(2)
2002年2月 第11話 真昼の星
真っ暗な諏訪湖に目をやりながら、向こう岸の岡谷市・下諏訪町の明かりを無意識の中でおっている。

もう、午後の9時をとうにまわって、明日の国土交通省をむかえての第8回の部会の準備に、県のスタッフは懸命である。

「少しでもわかりやすく、やさしい言葉で表現して欲しい」それでないと、専門家はわかっても、一般の人たちにはわかってもらえない。忙しい中、傍聴に来ていただいている住民の人たちの目線で、資料を整えていただきたい。
午後3時30分から始まった会議に、私から難しい注文をださせていただいた。
そのためのOHPの資料や、会議に提出するペーパーの再チェックが、今しがた迄続いた。

明日、本格的に、二つの治水案の検討に入る。それぞれの説明によって、質疑の深まりは、大きく変わってくる。一つの案を提出してくださっている、大阪市立大学の高田先生に、先刻、電話で連絡をとると、まだ、研究室で勤務中であった。

国土交通省の中村地質官は、午後10時、沖縄から東京にもどり、明朝、、諏訪へむかってくださるという。ただ、ただ、頭が垂れる。

こんなそれぞれの関係者が努力をしてくださっていること、下諏訪町の地域住民や岡谷市の皆さんに、つくづく伝えたいと思う。

みんなが、脱ダム宣言から発した下諏訪砥川の総合治水に一生懸命である。

今晩は雲が満天の星をおおいかぶしているが、星は目に見えるか見えないか別として、昼も夜も輝いているのである。
「真昼の星」私が最も大切にしている言葉の一つである。夕食にコンビニのにぎりめし二つ食べただけなのに、やけに満腹な思いで、この人達の真昼の星の真剣さをみつめている。


 
2002年2月 第10話 母
 子どもは親の歩みを追うものである。
 池田町の女性生活改善グループは、ハーブ料理で工夫と研鑚をつみ、「知事賞」をはじめ、多くの賞を獲得してきた、すばらしい方々の集まりである。常に気配りをし、前を向いての精神はすごいものがある。

 そのメンバーの中心的リーダーが、袖山光代さんである。
農家である袖山さんは、ご夫人のバックアップのもと、自由に、明るく、胸をはって努力している「スーパーかあちゃん」である。3年前からケナフ(第9話)を栽培して頂いた。
 毎日必ず続けておられるからすばらしいが、昨年は、ケナフの花でつくった100%赤紫のジュースなども開発してくださった。私の提案である「ケナフと桑とコウゾでつくった和紙にハーブをちりばめ、香りのある独特の紙をつくる」ことに関心を寄せていただいている一人でもある。

 先日そんな袖山さんに「どうして、何事にも、こんなに熱心に前を向いて取り組めるのか」「すごいことですが・・・」とお伺いしてみた。
 すると、「あなたのお母さんー里子姉さんーが、私の何かの第一歩をおしえてくださったのよ。」と言われた。「あなたのお母さんと一緒に相道寺焼を復興した時、いつも里子姉さんは、なんかみんなでやろうよ、なんかできることがあるんじゃないかって言って、野菜まんじゅうを作って売りはじめた。あのことが、私の中の第一歩だった。里子姉さんが教えてくださったのよ。」というお話であった。うれしくて、涙が湧き上がる気がした。

 袖山光代さんの実行するすごさ、そして、いっしょに今歩まれている人達のすばらしさがなによりであるが、この一言は、亡き母(里子)の短かった51年の人生が、母その人が、私の中に戻ってきた思いだった。
 母は苦しくても、いつも前を向いて、笑顔を絶やさず、太陽の光と仲のよい人だった。もう24年も前に他界した人なのに、いつも笑顔で陽の中で笑っている母が、私の中に生きている。


2002年2月 番外 小谷村の新しい風
信州おたり民家応援団の皆様へ

 小谷村の新春の会で、新しい風を拝見した思いです。
なにを通じ、その地域(小谷村)をみつめるか。
 その対象を人が定住することの原点である家に見い出されたこと、一時期、建築を学び、世界各地の文化を、「家」に視点をあて、そこに住む人達の息づかいとともに楽しんできた者として、うれしく思っています。
 「家がある」ためには、そこに生活がなくてはなりません。
 小谷村は人口減で苦しんでいます。なぜ村を出るか、雪が多いからではない、不便だからではない、きっと多くの村を離れた人達は、生活をしていく糧・職場がなかったからだと思います。夢をもって、暮らし、働ける仕事がなかったからではないかと思います。

 この新しい風が、この土地に、一つでも二つでも種子をまかれていって頂くこと、期待申し上げます。
 私も、新しい創造のため、ひたすら汗を流すつもりです。この地の人は温かく、決して弱音をはきません。ともに明日に向いていきたいと思います。

                    長野県議   宮澤敏文


2002年2月9日 第9話 新しい風の創造
 第8話をもう少し掘り下げて話してみる。

 地球温暖化は、今に生かさせて頂いている者にとって、次代に責任を持つ最大のテーマの一つである。
CO2のの削減・化石燃料をいかに減らすか、国民が全員参加し、地道でダイナミックな政策を実行する決意が必要である。

 3年前からCO2を多く吸収する環境作物ケナフを栽培してもらってみた。南米産のこの植物、種子の確保がたいへんであったが、8月、急に背丈をたかくし、秋には、やわらかい花が咲いた。この花はなかなか魅力的なものであった。最大の問題は、なにに加工し、消費を創造するかにある。
 紙に利用できるか、対策してみたが、製紙業は、製造コストの削減のため、規模の拡大が、すでに終わり、量で合意できないし、繊紙がストレートで、細く、単一で紙にならない。

 ある学校や、保育園では、卒業証書に自ら加工製造したケナフ入り用紙で、その記念を刻んでいる。このような先進的取り組みもある。
 しかし、その消費ルートを確立しないと、農水省が減反作物の第一群にいれているわりには、政策が後手である。
 行政で、モデル事業として取り組む努力も必要ではないだろうか。
 私も県の農政課と今まで打ち合わせを繰り返してきたが、専門官をふくめ、一生懸命取り組んでくれた。そろそろ、現実のものとしなければならない。
 池田町は、ハーブの里づくりを展開している。このケナフとこの待ちの歴史を支えた桑で、紙を作り、それにハーブの香りをとじこめた紙をオリジナルとして、製造すればどうだろうか、と、2年ほど前から提案してきた。
 1月31日、大北地域農振協議会の研修として、手づくり和紙
の里、長門町を訪れた。りっぱに300年前から農家の冬の副業として、伝承されていた業が、基本になり、工夫され、新しい試みが高レベルのうちに、始まっていた。

 新しい風の創造は、一部の人の情熱と英知から始まる。
 今後に大いに期待するところである。


2002年2月3日 第8話 地域の活性化
 新しい創造の風を、この不況の時こそ、そだてなければならないと種をまいてきた。
 私は、農耕民族、稲作とともに成長させて頂いた。田植え、ゴロころばしなど、一年に一度の収穫、一粒百行を常に体得してきた。
 20年の米作りには20回の前とは異なった百行がそれぞれにある。
 米が昭和47年からの減反政策で、思う十分作ることができなくなり、もちろん、ほとんどの農家が米で生活していくことなどできなくなった。
 その減反政策をささえた「とも保障制度」が終焉に近づく。
 新しい農業の取り組みが、その地域地域で個性をもってすすめられなければならなくなっている。

 わたしは、池田町で、中山間地対策費を利用し、ワイン用ブドウ作りを新たにうみ出そうと、ここ5年ほど前から、県との連携でやってきた。
 やっとその芽が出ようとしている。
 もちろん、わたし一人の力ではない。うまくもっていきたい。うまくもっていくための土台として、この町には、先人がつくったハーブの基調ができあがっていた。しかし、このハーブは最近の発展に、成長のないまま生まれたままの状況でとどまっている。
 新しい息吹をふきこまなければならない。
 今日、長門町の紙作りの里へ、町の有能な職員と訪れた。
 池田町では、3年前から環境にいいといわれるケナフを県下ではじめて、3a耕作した。これにハーブをいれた紙作りをし、付加をつけて、新しいニーズをつくり出すことで、新たな、ハーブの里づくりをして欲しいと考えたからだ。確かな取り組みをうれしく思う。ぜひ、実現したいものである。

 白馬村では、3年がかりでSPF豚の工場と子豚の養育を誘致することができた。これに付加価値をつけようと、ハム・ソーセージへの加工をずっと心に温めてきた。白馬村長も同意され、今日、白馬ハムづくりのため、八千穂村の「きたやつハム」へ、農政課職員とともに伺った。工場視察や説明をうけている中で、おもったより、実現の日が近いことを実感した。たのしみである。


 なにをやるのにも、人の汗とふんばりだ。
 それぞれの担当が、それぞれの汗を流すしかない。
 いつも思う、「種をまかずして、収穫はない」のである。
 土の力による、農業の再構築は、自らの汗でできる、地域づくり・活性化の唯一の切りかえしのように思えてならない。


2002年1月 経営者
 下の妹が嫁いで17年が過ぎようといる。母の背中で真っ赤なほほをしていた彼女が、3児の母となり、りっぱに一家をきりもりしている姿には目が細まる。
 時代は、成長経済から「0」成長、そしてマイナス経済へと、移行している。再び失業者が社会に増え出しているが、不思議と世の中に楽観しているのには驚く。
 親会社の海外シフトで、仕事がなくなって会社をしめざるを得なかった経営者の家族の皆さんの苦しみや涙をいく方も拝見させて頂いて、心が痛む。「一生懸命がんばっても、どうしようもないことってあるんですね」といわれた経営者夫人のことばがこのごろよく浮かんでくる。
 昭和30年の初め、経営者であった実父は、仕事や資金繰りに身体をいため、下の妹が一歳のとき、わずか36才の若さで帰らぬ人となった。
 経営者はたいへんだ。7歳であった私にも、そんな思いがどこか心の中に刻まれていたのかもしれない。
 多くの友が、それぞれの分野で、経営者とともに一生懸命がんばっている。公共事業に働く建設業の、ある友は、この冬就業員の仕事がなく、自ら従業員の仕事探しのために、大町や糸魚川のハローワークを廻っていた。
 日本では、経営者は、一度失敗したら、連帯保証人まで総てを失うシクミになっている。
 しかし、国際化の波が吹き荒れる中で、欧米では、経営者の責任のとり方は、明日への可能性を残してくれている。
 「経営はやみへの挑戦」である。一度も失敗しない方がまれである。一度や二度の失敗で、卓越した可能性がなくなってしまうことの方が残念である。


2002年1月 北安曇郡池田町に相道寺焼復興

 相道寺焼を復興してから30年が過ぎた。
 父と母と相馬さん、袖山さんと皆さんで、若いときにスタートしたとはいうものの、地味な陶芸の世界でなんのバックアップのない中で、よく続いたものである。
 宮澤菊男、私の誇れる父である。私にとって小学5年の時、母が再婚。すばらしいやさしく、温かい父親となってもう40年近い年月がすぎようとしている。
 昭和48年、その父が二人の友人と江戸時代文化文政の時代60年間県下でも一、二の歴史である相道寺焼を復興した。
 よくこつこつわずかな収入の中でがんばってきたと思う。

 今は窯元として一人で夜遅くまで裸電球の下でロクロを廻している。
 窯元の陶芸教室に集まる人たちは、みなさんがすばらしく温かい人たちばかりである。だから、続いてきたのかもしれない。

 弟の弘幸が二代目として多治見での修業を終えて、家に入ってから7年がすぎた。父は弟が陶芸の世界に入る時、生活していけるかと心配だった。他県の伝統窯元は数100年の歴史をかさねているが、これといって特色のない小さな町の窯では生きていくことは難しい。

 一つのことを習得するには、かならず三昧鏡にはいらなければ深みを授受できない。母が他界して29年、独りでよくがんばってきたとつくづく頭が垂れる。

 この15日から松本の井上デパートで初めての個展を開催する。
 実直で、素朴で、それでいて力強い。

1:2001年
3:2002年3〜5月
4:2002年6月〜
 HOME 
番外:2002年謹賀新年