2003年6月25日 | ガンをなくしたい |
肺ガン検診の世界的権威である、信州大学名誉教授曽根先生が池田町の安曇総合病院長に就任してから2年がたとうとしている。 常に住民の肺ガンをなくすための検診に対する厳しい姿勢にお会いする度に頭が下がる。 不思議であるが、いつお会いしても笑顔をたたえ、初老のやさしい紳士さんからは、世界を飛び回り肺部x線写真による検診から、CT検診に新分野を開発された世界的権威を想像することはできない。 その治療の指示と対応は、すばやく、的確で医学の素人からみると舌をまく限りである。 大町、北安曇地方は、不思議とガンによる死亡率が高い。 なぜなのか、今、曽根先生に研究していただいているが、大腸ガンに至っては、松川・池田は率で、他の2倍にも上るらしい。 早期発見→行動→回復。曽根院長は、受診者に経済的負担をいかに小さくするかに心をくだかれる。CT検診でも非喫煙者は、3年に1度で大丈夫だが、喫煙者は、好きなものをやめられないのだから、1年に1度の検診は、喫煙マナーであると思って欲しいと、はっきり区別して、ご指摘される。 この先生とアルプス山麓からガンをなくす運動をすすめてきた。6月18日も会議を開催したが、今後、具体的にどうするか。 先日、安曇総合病院に、MRIが導入された。早期発見の体制が一つ一つ前進している。 なんとしてもガンをなくしたい、そんな思いの毎日が続く。 |
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2003年6月11日 | 神戸にて |
神戸は坂が多い都市である。 1995年1月17日朝5時46分 悪夢の大地震が発生してから、8年が経過した。 死者6401名、負傷者4万人を越えたあの不幸を、兵庫県はどう乗り越えたのだろうか。 期待一杯で新神戸に着いた。震災の年の7月だったか、まだ焼け野原が残り、あちらこちらのビルで亀裂が入った神戸市訪問して以来である。 電話をし、現在、兵庫県の防災の中核である兵庫災害対策センターへ伺うと、玄関に、主幹の係長さんが、初めての訪問なのに、遠くの友人をむかえるような温かい笑顔をたたえてむかえに出てくださった。 この方の個人的感性だろうか、それとも役につく者としての心得だろうか、だとしたらすごいことである。 昨年から兵庫県ではフェニックス防災システムと災害対策支援システムが、位置づけられた。その役職ごとに、災害時に行かなければならない活動ガイダンスを作成し、知事や防災課職員が変わっても決して異なることのないルールを確立し、もしもの時を実際に想定し、訓練しているとの説明がある。 一番他の都道府県と異なる点は、災害本部自体が、災害の被害の中(その地域)にある自らが、身動きがとれない中で、どう県民サービスをするかという認識をもっているという点である。水や電気の確保といい、備蓄体制といい、まさに、ここには、生きた体制整備がなされている。 職員のほとんどが、あの大震災をたいけんしているだけに、その災害行政本部にかせられた厳しさも、プライベートのないつらさも防災に働くことで誇りを持ち、いきいき自立している。本気である。 「まず学ぶことから始めよ」 研修が積極的に開催されている。1コース幹部コースが2週間、一般が3週間と今までにない長期のものである。 災害への取り組みが、中途半端でない姿勢がうかがえる。 全国で初めて報道された、副知事並みの責任をもたせる「防災監」に様々な実態談をお聞きし、特に驚かされたことは、災害に関係ある13の分野の責任者が、このセンターから5分以内の寮に2つに分かれて、生活するという常時体制をひいて、準備しているということである。 「私もここ3週間も家には帰りません」と防災監は笑顔で説明してくださった。 災害に向かい合う本気が、笑顔の中から伝わってきた。 災害から8年、兵庫県は、本気の備えを確立された。 |
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2003年4月18日 | 松川村響岳太鼓日本ジュニアコンクール優勝披露会 |
日本子供太鼓コンクール優勝披露は、静寂の中、きびきびした礼から始まった。 |
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2003年4月 | たらの芽の頃 〜増田明美さんとの交流〜 |
春を実感する山菜の王様は「たらの芽」であろうか。 このころになると思い出す さわやかさんがいる。 元オリンピック選手の増田明美さんである。 増田さんは、国民の期待を一身に背負って、ロサンゼルス大会で初の競技種目となった女子マラソンに出場。体調不良から16キロでリタイヤ、屈辱的な敗北を経験された。 期待が大きすぎたため、帰国後外出するのもつらい毎日をおくっていたらしい。まさに今まで生きてきたことがこわい気持ちだったろう。 そんな彼女が、思い切って合衆国のオレゴン大学へ二年間の留学を決意し、そこですばらしいコーチとの出会いが彼女を走るマシンから人間に戻してくれたそうである。 記録や人の顔をうかがって走るのではない、人のために走るのではない、自分が走るのが好きだから走るんだ、楽しいから走るんだ、笑顔が自分にあったということが初めてわかったと語られた。そんな増田さんと会ったのは、春の遅い白馬山麓に5月の陽光がまぶしい晴れた日であった。 お会いする朝、都会生活できっとお疲れであろうと、自然の恵みが一番と思い 朝早く山へ入りたらの芽を採り、一期一会で彼女にプレゼントした。 楽しい語らいがあって、多くの元気と底抜けに明るい笑顔を頂いた。 数日後に一枚のはがきが届いた。増田さんから、元気とやさしさをありがとうと記されてあった。 さわやかな五月の薫風を感じたものだった。 8年を政治の仕事に汗を流してきた。地域と接すれば接するほど、住民の不安や不便を解消する要望がじつに多く、その努力を傾注すればするほど、自分を忘れてしまうことがよくある。 そのことは決っしていけない事ではないのだか、自分の中にある 湧わく滾こんわきあがる思いを置いてきぼりにしていないか自問自答する。もっと気楽に肩の力を抜きながら楽しく一歩一歩を刻みたい物だ。 |
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