2003年9月23日 | 祭囃子(まつりばやし) 池田八幡神社例祭 |
7歳のになった日から、この里に育つ子どもたちは、秋の収穫を祈る祭の「おはやし」の一員として加わる。長月に入ると、消防小屋に集まり、年上の子から伝統ある調べに気を合わせ、おはやしに仕上げるのである。 初日はびくびくしていた7歳の子どもたちも3週間にわたり、毎夜3時間、先輩からチンとジャンの打ち方を習う。そのうちに、たくましく元気な地域の子に変わっていく。 神社を出た祭船や舞台は、町内を廻り、神社に帰るまで2時間。その間、調べは休むことがない。7歳の子には、大変な経験である。ひとつに調和のとれた見事な演奏を聞きながら、親達は、たくましく成長した我が子を見つめるのである。 学校・家庭・地域の三位が一体となり、子どもたちを育てるという方針を出して久しい。 農村部では、農業の節目の行事として、春夏秋冬の趣に合わせ、人が集い、自然に祈り、感謝する。その催しの主役は、多くの場合、子どもたちが荷う。 1月のどんと焼は1年の無事を祈り、鳥追いは村の無病息災をお願いし、春祭り、秋祭り等など、皆が楽しみながら、地域の輪に花が咲く。 地域で子どもたちを育てるというのは、今をいっしょに暮らす一員であることを子どもたちに肌で体感させるから、成長しても、ふるさとを愛するのであり、その地域を大切にするのだと思う。 ずっと学校へ行くのをいやがっていた子が地域の、このおはやしに参加したのをきっかけに学校へ行けるようになったという話しを耳にした。 人と人、そしてその絆、和は、その輪ごとに異なるのであるが、50歳を越えた者にとっても、あの7歳ごろの幼き日の裸電球で、皆が大声をあげながら、祭囃子に参加した日が、とても大切なセピア色の情景とともに今に生きている。 山車の上中 山車 |
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2003年9月 | 白馬村青鬼(あおに)の火祭 |
村落の外にくらす人たちも、年に一度のこの祭に集まって、とうろうに入れ「祭火」を、こうぞの棒と板をすりあわせて、つくる。火起こしの行事が始まったのは夜の8時半をとうにすぎたころだった。 次から次と、こすり棒を起こす廻す人が変わり、20名くらいが廻し終えたころに煙が昇り出した。 ひさしぶりの再開を喜び合い、お神酒の量も身体にゆきわたり、陽気で、楽しい、やじも入り、一気に興がなごむ。さらに煙が昇りだすと、一同、火起こしの一点のみをみつめ、息をのみ、じっと息をひそめる。これが里の和の原点であろうか。 一昨年、白馬村青鬼地区は、文部科学省の伝統的文化を残す集落に指定された。現在、この村は歴史と、汗と、喜びを後世に保存しようとされている。どのような姿で残せるかが問題である。 秋になると青鬼の空に、棚田が黄金色をして、民家が点々と浮かび、まさにふるさとの原風景である。 人が住み、春夏秋冬の趣を変える自然との共生の生活の中から文化が生まれ、伝承される。わずか10軒たらずの小集落のいとなみに、国から文化的価値を認められたことに心から嬉しく思った。 この祭の前半は、大人である火起こしの儀式も、その祭火の燈ろうも、神殿の明かりも、祭のおはやしも、すべて大人がおこなう。子どもの出番はないのだろうか。 安曇野の神社祭の場合、子どもの役割が大きいだけに、そんなことを思ってみた。 高齢化、山間だけになかなか手に入らない農地、数キロもの谷の上をけずって作った水路、石を手で積み、作った田の畦、工夫をこらし、汗を流して、農地を切り開いてきた。長男が家を継ぎ、その他の子どもたちは、成長すると同時に里を離れ、自立していく習慣が代々受け継がれてきた。荒れた土地で一族が生きていくための厳しい生活ルールがあった。 「古米の紫米をつくろう」「きのこの里にしよう」元気ある翁たちは、新しい試みを常に心に刻み、田畑に出、山に入り、この地で生きていく可能性を手探りしてきた。 今回指定された伝統ある集落づくりを機会に、住民の生活できる青鬼地区にしていただきたいと心から思う。 人が住まなくなると田畑は荒れ、集落は滅んでしまう。 白馬村がこの地で収穫された紫米で日本酒を創造された。こくのある紫米酒をいただきながら、新しく再建された民家の囲炉裏の火をみつめた。いつまでも人のいいげんきな笑い声が、この里に響くことを願う。 |
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2003年9月10日 | 小谷村(鄙)に住む映画監督 |
農村と農民をレンズを通じて見つめ続けた山岸豊吉さんが長野県の県境の過疎の村小谷に住み着かれてからもう何年になられるだろうか。 毎年稲刈りが終わった1O月のある日、農業がすきで農民とともに歩き続けている頑固な人達が全国から安曇野につどい、年齢を忘れ夜を徹して農業を取り巻く情勢のこと、政治経済のこと・地域社会の在るべき姿のこと、自然の中で、まるでわき水が湧き上がるよに尽きることのない湧湧こんこんの時間を過ごす。 この会にエッセイストの吉田忠文さんと二人で山岸さんがやってくる。 吉田忠文さんは、児童教育の実践者であった奥様を心ない運転手のために、小谷村内交通量が激しいと問題にされている雨中地区の道路でなくされた方だ。 山岸さんは奥様とふたり小谷村の黒川地区に住んで農業を営みながら、自然とともに生きる自給自足の生活をし、ご夫妻とも文筆活動をしておられる。 そんな山岸さんが、咋年鳥鵠鶏を卵から1OO羽かえし、近くの道の駅に卵を出荷していた。しかし、鳥鵠鶏は、きつねに2羽を残して全部食べられてしまったらしい。これが口措しいと酔いにまかせポーズを取りながら話し出した。 「キツネも山が不作のときはやもえず里に下り、農家の人達が畑の隅に埋めて処理した残飯を掘り起こし、それを食べて飢えをしのんでいた。一定の均衡がとれていたのだ。ところがこのごろ何も解っちゃいない行政の役人が、都会と同じくこんな山村までも、ゴミをわざわざ費用を使って別なところで処理する制度をつくってしまった。ゆえに自然界の動物が食べるものが口に入らず・人の生活圏を犯すようになってしまったのだ。自然が大事だ大事だと叫ぷあまり、自然の奥の深さ、共生の真実が全く見えていない情けないこと.だ」と嘆いておられた。 めりはりをつけた行政政策の必要性をずっと感じてきた。知事へも機会あるごとに「ITを中心とした都市部を対象とする産業政策と、まだ住民の生活環境整備が不十分な農山村とは、異なった政策対応をすべきだ」と進言もしてきた。 国もそうだが・地方は特に地域格差が大きい。現実を把握しての対応が住民に近い行政の場合特に要求される。 ある調査によると、家庭から出る残飯はテーブルにのる料理の36%で年間700万トンをゆうに越える量だそうである。 平成6年の米の大不作のとき、海外から持ち込まれた目本人の味覚とは合わないインディカ米(タイ米)がゴミ捨て場に捨てられていたのをみかねて、全国に呼びかけアフリカの住民に援助米として送った経験を思い出すが、日本人の食料に対する意識の低さには、土のすごさを忘れがちな農家生まれにもやり切れなくなる。 改革が叫ぱれている・流れを変えるときは、立ち止まって、しっかりと「いま」を見つめ、何がいいのか悪いのか、また何を変え何を残すのか、を十分吟味する必要があると思う。 秋の虫の声に合わせながら杯を上げる山岸さん、吉田さんをはじめ、全国から楽しみに集まった頑固な人たちは、何がかけているかが解かる人達ばかりである。 |
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2003年9月8日 | 花火 |
今年の夏は、天候が不順で涼しい雨の多い日が続いた。やはり夏はすかっとして太陽が照り、子供たちの歓声がなくては寂しいものである。 そんな憂鬱の中で、唯一気持ちが晴れたことは、大空に広がり、日本アルプスの山々に響きこだました花火ではなかっただろうか。 北アルプス山麓・安曇野では、数年ぶりに復活した木崎湖花火、池田町・松川村が力を合わせて尺玉を打ち上げた高瀬川花火、それらいずれも関係者のご尽力で、夏の一夜心静かに人生ともたとえられる花火の残映に酔わせて頂いた。 今まで花火大会の行事は、商工関係者が費用を捻出し、住民に夏のドラマを提供してきた。ところがここ数年の各花火大会の傾向をみるに、不景気から企業者が高価な花火代を負担できず、住民が一軒1,000円程度を出費しその費用で花火大会を催すケースが多くなってきた。花火師への打ち上げ花火の内容についてのオーダーができるともっと楽しくなるだろうが、子供にせがまれて家庭のやりくりの中から用意し、家族や親しいものが輪になって見つめる線香花火の心が帰ってきたようだ。 しかしどの会場も火事の対策や観衆の安全・交通整理など準備の段階から商工会を始め関係者がボランティアで汗を流しておられる。このような催しには、どうしても真昼の星のような役割がなくてはことが進んで行かない。 いま戦後長きにわたって、商店や中小・零細企業のあらゆる相談相手として町村の商工振興の中心的存在だった商工会組織の存続の危機に遭遇している。 長野県では今まで、他の46都道府県と同様、商工会の経費の1/2ずつを都道府県と国とで負担し合ってきたが、田中知事は、2月県会で県の負担分を1/3に減らしてしまった。この予算は、国が県に合わせる予算システムをとっているため、国も1/3になってしまう。わたしは断固反対を主張したのだが、このカット額を埋めるための予算が他になく、結局どうにもならず国も県も1/3となり、商工会は大変な危機的状況に入っているのである。 「会員の帳簿整理や平成の大改革で細かい事務が増え、後継者不足や経営者の高齢化等で商工会の業務や責務は増える一方なのに、このままでは、商工会は壊滅してしまう。県は、公共事業の削減等での仕事が減っているので、県職員が代わりにやるつもりなのか」と商工会役員は手厳しく批判する。 9月県会・12月県会・そして来年度予算を決定する2月県会までに、県民や商工会関係者が真剣に論議し、県民が求める方向を正しく判断していかなければならない。 政治の原点は、県民の望む社会づくりである。そのために県民に正しく判断できる資料・システムや政策のメリット・デメリットを提供するのが行政関係者の責任であり、説明責任であると思う。 グローバル化し、個性が失われて行く時代に日本は春夏秋冬の趣の中で、自然との共生することから培われた文化や生活、農耕作業の中から生まれた隣近所の助け合いの精神を大切にしながら世界に胸を張って存在し続けたいものである。 明治の文豪芥川龍之介は「我々のウィのような花火よ」と結んでいる。住民の平和の象徴と比喩される花火。「これだけ不況感で沈滞ムードを何とか吹き飛ばし、元気出せいという願いをこめて、花火をうちあげるのさ」と話されていた地元の商工会長の笑顔が重く私の心に広がった・・・。 |
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2003年9月 | 国境の薙鎌(なぎかま)祭り |
見渡す限りのもやの中を、かん高い木遣りの声が流れていく。 長野県と新潟県の国境を争った時、この新潟県の地勢図の中にあった戸土地域の古木の杉の木に長野県のシンボルである諏訪大社の薙鎌が差し込まれていた。 それが起源で、諏訪大社の御柱祭の一年前の秋、諏訪大社から宮司が鄙の県境の村のちっちゃな御社にお越しになり、なぎかま祭がしめやかに催される。 晴れの日ならば、日本海が眼下に広がる戸土境の宮の境内には、雨にもかかわらず、200名を越える氏子をはじめ、関係者や観光客がグチャグチャになりながら、この幻想的な神事を見守っている。 氏子の代表は、ぬかるみを気にもせず、ズボンを泥だらけにしながら、澄み切った眼光で、神事の先頭の立っておられる。その真剣さが杉の森の神様に届くかのように、もやがあたりをおおい薙鎌の神事の時は、まさに神の御意志が境内を包み込む。 薙鎌が打ち込まれていた時代は、この地に多くの人が住み、地域や森林を守り、自然とともに生活してきた。 今のように、食べるものも貧しく、電気の恩恵もなく、自給自足に近い生活が何世代も繰り返されていただろう。 親と子が力を合わせ、山を開墾し、棚田をつくり、山とにらめっこしながら、代々汗し受け継いできた。 いま市町村合併や道州制が盛んに論じられている。 行政のエリアは、あくまでも、人間が創った地図のうえだけの境界であるが、自動車をはじめ、高速交通網が整備確立されてから、日本でも世界でもあっという間につながってしまい、生活の必需品である塩を背負い、暴漢を恐れながら、山道を行き来した塩の道の時代は、セピア色の遠い昔の出来事となってしまった。 平成の市町村合併の規模がどのくらいがいいのかは、議論が白熱するだろうが、行政のエリアがどのように変わろうと、自分の生活の基本空間−それが集落なのか、村なのかはしっかりしないが、顔がわかり、老若男女が信頼の絆で結ばれ、互いに助けあう地域関係が失われないことが第一だと考える。 現在、過疎地域で生活の糧が得られず、村を離れざるを得ない住民が増え、自然と共生していた管理された耕作地は放置され、災害を誘発している。 なんとかして、生活の糧をみつけようとするのだが、子どもの教育を原因に挙げられてはなかなかやりようがない。 祭典に参加した観光の人の多くは、雨の中を塩の道を歩いて、長野県の集落へ戻るという。人が歩いて道ができたこと、自然を満喫するだけでなく、この地に生きた人達の必死さにも、思いを巡らせて欲しく思う。 「つぎの7年後まで生きていられるかどうかわからねぇが、何人の家族がこの村を離れて行くかを考えると寂しくなるぜや」といわれた氏子総代の言葉が空しく、雨の中の帰路はやけに足が重かった。 |
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