宮沢敏文の里山ばなし(9)
2004年4月 さくら

さくらが盛りを過ぎてその花びらが、どこか物寂しげに春の薫風に舞う四月の末、日本で唯一の仏教を心の支えに死と向かい合う人たちが心静かに暮らされている新潟県長岡市の長岡西病院に伺った。

がん末期の医療のあり方について研究する昭和医大の高宮先生からの紹介で伺った彼は人間性豊かで飾ることのない信念の人で、ここ数十年 医師があまり取り組まなかった緩和ケアに三昧鏡で取り組み日本中を駆け回っている。

 私とは互いの予備校時代、英語教育を通じ人生の同じ師を持つ間柄であり、昨年彼にがんの末期治療のあり方を聞くと「こんな身近なホスピス」「がんの痛みを癒す」という二冊の本を紹介してくれた。早速ページを捲った中にこの仏教ホスピスが紹介されていたのである。

 信濃川を望む一般病棟の眺めのいい最上階に、がんの末期患者が過ごす「ビハーラ病棟」がある。ビハーラとは、サンクリット語で「安らぎの場」。厚生労働省が認める緩和ケア病棟で、がんの痛みを和らげ最後まで自分らしく過ごすのが目的で設置されているいわば仏教ホスピスである。

ホスピスの語源は、修道院が疲れた旅人を受け入れるところであるが、もう二十数年前、インドに伺ったおりマザーテレサさんの病院を訪問したときのことを思い出す。この長岡ビハーラはそれとはまったく違う日本人がほっとする普段着の雰囲気であった。

 予約をして伺ったためか、ターミナルケア病棟ビハーラの医長板野さんが待っていてくださった。板野さんの奥さんは白馬村出身で話が弾み、熱心に説明していただいた。

「医者が一切命令を出さない。入院者の話を聞くことが全てです。入院される人は、始めびくびくされておられる〜黙っておられる。こころを開かれるのはお聞きすることだ。」と申される。

がんに侵された痛みは想像を超える。いたたまれないのをじっと我慢している。誰だって回復したいから、苦しいから病院に来るんだ、それを医者が自分の判断を押し付け手術し治療する。ほんとにそのことは正しいんだろうかと途中から加わった平野医長は話される。


人は、死を前にするといままで我慢していたことが出てくる。

僧侶と語り医師や看護婦と話すことにより、最後まで自分らしく生きるのだ。人には「いきざま」があり、家族には、「みとりざま」があるのではないだろうかと話される。

「家族も介護するうちに成長するのだ。究極の緩和ケアは在宅にある」とやさしい口調ではっきり言われた。亡くなられた人が残された人のこころの中に住んでいる
仏堂で板野さんと話しをしているとつくづく思う。


 心静かに合掌しスタッフの皆さんとお別れした。

 人は誰しも老い、いつかは死ぬ。死についての考え方もそれぞれであろう。しかし多くのものは、病のなかで死と向き合う。人間として尊厳を持って心静かに死を迎えたいものである。

 亡き母が、最後まで「治りたい、治ってふるさとへ帰りたい」と東京の国立がんセンターで病と闘い続けた。すごい魂だった。母の決意とは違っても、なんで まだ動けるうちに自宅へつれて帰らなかったんだろうとわたしは今でも悔やんでいる。遠く離れた不安な地でがんばり続けた母を思うといつも涙がわきあふれてくる。 
 在宅緩和ケアが目標だとお聞きしたが、遠くの病院に入院するのでなく、生まれ育った生活拠点の地域で完結する地域完結医療でなくてはならない。このことは最後のわたしへの母の教えである。

 偶然だろうか、妹が新潟大学時代をすごした長岡市で緩和ケアの原点を学ばせていただくとは、確かにわたしのなかに母は生きている。

2004年4月 先人植樹、後人楽涼

「教育の和合」として松本市民に愛された和合正治氏が、春浅い三月の初めご弟妹やご家族に見守られながら眠るように旅たたれた。

いつも穏やかでやさしいお人柄であったが、芯は強い信念の人であり、誇り高い人だった。松本市長選挙のとき3ヶ月間秘書役をさせていただいて以来、家族ぐるみのお付き合いで、顔を見るだけでうれしくなるご指導をいただいてきた。

 松本市長選は3月の初めに告示されるが、正月をはさんでこの時期の松本は冷え込み 寒い。雪の中を霙の中を一軒一軒挨拶に二人で回っているとき、わずかな休憩をみつけては、おいしそうにタバコを吸われるしぐさが脳裏に浮かぶ。

こころ配りがあり、人に優しく自分に厳しい人だった。

 松本市は、昔から、筑摩県の中核都市であり、岐阜県の高山地方との関係は古い。いまこそ世紀の難工事の末、完成した安房トンネルのおかげで、早く便利になったが、この道路整備に力を入れ大きく前進させたのが和合さんであったことを知る人は少ない。

選挙戦では、生活道路も十分でないのに岐阜県の道路整備に力を入れるなど言語道断と批判されたが「将来の松本を考えると、絶対に岐阜県高山、北陸への窓を開け、閉ざされた松本平に風を吹き入れなくてはならない。中部縦貫道路は、松本の発展には欠かせない」と主張し続け、その後も大好きな日本酒を傾けながら、後に教育長を勤められた秘書室長の小平さんや私どもに、壊れたテープレコーダーのようにお話になられていた。

今年度から道州制が真剣に検討され、地方政府の枠が広がろうとしている。

行政のリーダーたるもの自らのビジョンが無くして、その職を勤めることはその資質に欠けるといわざるを得ない。目の前の痛みを和らげることを指摘することはたやすいが、長期的視野に立って地域づくりを示し実行するリーダーでなくてはならないと思う。

信州の先人たちは、いまの飯を削っても将来の可能性に賭けた。それがまさに信州の精神であった気がする。春のうれしさがあると信じるから、長い厳しい冬を我慢できたのである。

先人植樹後人楽涼という言葉がある。大切にしている志であるが、和合さんに学ばせていただいた。

なくなられる前日、病室に伺うとご弟妹に介護され、意識はかすかであられたが、お礼とお別れをさせていただいた。長い間和合さんを励まし真昼の星のように支えてこられた妹さんに見守られながら、好々爺のお顔であられた。

松本市に生きることを誇りとし、ぐちをけして言われず、よりよきを思い貫いたトップリーダーの両足にご苦労様でしたとさすって差し上げると、その足は驚くほど大きくゴッツかった。

弔歌    和を尊び、示す未来に 風薫る。      合掌

2004年4月 ふるさとの山・森に

江戸時代、租庸調という農民への税の押さえつけで、農家は来る日も来る日も「少しでも稲を植えよう米を取ろう」と森林を開墾し山奥の沢から水を引き、水田を築いてきた。地域に生きるこの魂は、明治・大正・昭和と山と向かい合いその面積を増やしてきた。まきを出し、炭を焼き、植林をし、山に感謝して生き続けてきた。

ところが戦後の国際化で、安いものを求め、日本の古来のよさを放棄した日本人は、海外の森林をきりはらい外材を輸入し、二十一世紀に入った今も、地球温暖化を考えずに、発展途上国の森の木が切り続けられている。当然日本国内の木材消費は少なくなった。山と向かい合っても生活できなくなり、人は村を去り、村は過疎化し、山は荒廃し、植林した森は人の手が入ることなく放置され、まさに森林がやんでいる。

山とは違い、森林や森はただ勝手に出来上がるものではない。

わたしの少年時代は、親や祖父に連れ出され、植樹や炭焼き・つるきり・枝下ろし・した草狩りと漆にかぶれたり、山火事まがいを起こしたり思い出は尽きないが、森や木々と対話しながらつき合ってきた。山は、多くの恵みと思い出を与えてくれた。唱歌ふるさとの「志を果たしていつの日にか帰えらん」と涙をためながら歌ったふるさとは山との思い出に満ちていた。

長野県では田中知事の方針で積極的に間伐が今行われている。3040年成長した木が切り倒され、その80%の木がその場に切り倒されたまま放置されている。なんともったいない大切な資源の無駄使いであろうか。何度も県議会の本会議や委員会でも指摘してきたが、木材の消費拡大を真剣に対策しなければならないときにきているのである。ガードレールと案内板とか長野県の知恵は乏しい。

わたしは、エネルギーとして使うべきだという考えを貫いてきた。

「木を粉にしてエタノールを作り、石油の代わりができないか」と研究者と会議を重ねたり、岩手県の木材ペレットストーブの研究に足を運んでもきた。

木の粉からエタノールを作りそれで自動車を動かす研究は確実にいま進められているが、地域で地域の人が、目に見える木の消費拡大を考えなければならないのではないだろうか。先人が将来の子孫のことを考えて、植え育ててきた木が、切り倒され放置される政策などいいはずがないのである。

ここで私はひとつの提案をしたいのである。「長野県下の700校ほどの小中学校のすべの教室に木材ストーブを設置し、県下10広域に小規模でいいがペレット製作の工場を設置する」木材やで上がったペレットの移動距離を少なくすることも地球温暖化のためにも必要であり、地域のものを使いその恩恵を受け循環することは、地域が自立していく原点になると考えるからである。

時代を背負う子供たちのそばに木の恩恵、森のすごさ恵みをおいてやることこそ、今を生き森の恩恵で育った私たちの使命ではないだろうか
2004年1月15日 母の涙

思い出してみると母親の涙はあまり見たことがない。親とは、苦しいことがあればあるほど、子には涙を見せないようにするのだろうか。

32歳で連れあいをなくし3人の幼な子を抱え、どう生きていけばいいのか、母は苦しかったろう。8歳の時だったか、長男の私にしっかりしろと馬乗りになり、私の顔におちて流れたあの涙。

ガンに犯され、入院中の病室で私が、しもの始末をしているとき背中を震わせて流していたあの涙。

涙もろい人だったが、私が覚えている母の涙はこの二回だけだった気がする。

誰もそうであろうが、死と向かい合うときの涙の記憶は心にしっかりと刻まれる気がしてならない。

「がんという厄介な病気をなんとしてもなくしたい、がんに侵された人が穏やかに一期を終えさせたい」私がこの決意を胸に、あらゆる可能性を引き出そう創造しようと今を生きているのは、あの母の涙からだったことは確かである。

子は親の涙を見て育つ気がしてならない。一生懸命に生きる親の背中が何よりの子供への教えであり、メッセージなのだ。

このごろ「私たちは果たしてどうだろうか」と家内と話すが、なき両親のようにはなかなか行かない。現にわたし自身子供たちに涙を見せたことがあるのだろうかトンと記憶にない。

親と子の絆は時代がどんなに変わろうと変わることのない不文律である。



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